法話10月

愛・地球博記念公園 サツキとメイの家 撮影: 超空正道

しょほう

 宗教は、危なくて怖いものであるととらえている方がいます。宗教は、人間にとって必要と思われる水・空気・火の中で、火にたとえられることがあります。確かに、火を扱えるのは人間だけで、火を上手に使いこなせば、質の高い生活をすることが可能で、他の動植物とは違った、人間が人間らしく生きていくために不可欠なものである反面、扱い方を誤ると、火傷やけどをしてしまい、命に関わる場合もあり、危険で怖いという一面があるといえます。

 『現代国語辞典』に、宗教とは「神・仏・キリストなど、人間をこえたものを信じることによって、安心・幸福などを得ようとすること。また、そのための教え」と、実に明瞭に解説されていますが、結局のところ、科学的には実証することが難しい範疇はんちゅうの分野を扱うものであるが故、奇想天外・荒唐無稽こうとうむけい絵空事えそらごと、さらには、幸福を希求するものとしながら、真逆の方向に進んでいても、当事者は全く気づいていないといった、はたから見ると滑稽こっけいであったり、悲劇さえ招いていることも、結構あったりするわけです。そこのあたりを、宗教は胡散臭うさんくさく、危険なものとしてとらえられているのでしょう。

 しかし、「群盲ぐんもう象をでる」ということわざがあります。今では差別的な表現にあたりますが、お許しいただくとして、目の見えない方達が、象の頭・足・鼻などそれぞれを触って、その部分だけの判断で象というものはこのようなものだと決めつけて互いに譲らなかったということです。つまり、どのような物事、宗教においても、いろいろな側面があって、一面だけとらえて評価するのは賢明であるとは言えません。

 仏教においても、大別すれば大乗と小乗、また日本仏教に限ってみても、いろいろな宗派が存在し、それぞれがそれぞれの特徴や側面をもっています。中にはそれこそ安易に近づくと火傷をしそうなものも存在しますので、その見極めはとても大切です。そこで先程の象の話に戻しますと、象は頭から尻尾まで、それぞれの部位は違った役割を持っていて、見た目も違いますが、それらは、骨格によって支えられています。同様に、我々が念仏、題目、座禅といっている仏教の教えは、象の各部位のようなもので、それらを屋台骨のようにして支えている教えに、「諸法無我」があります。

 「我思う、故に我あり」は、フランスの哲学者デカルトの有名な言葉です。私どもは、我という存在を疑うことなく、我を中心において、「損だ」「得だ」と言って生きております。しかし、仏教哲学「諸法無我」では、全てのものは、互いに影響し合い、因と縁によって常に変化しつつ成り立っており、我を含め全てのものに実体はないというのです。これは、『般若心経』の「色即是空 空即是色」に説くところの「空」の教えと共に考えると分かり易いです。

 自分という人間で考えてみましょう。影も形もなかった、正に空であった自分が、父と母がある時出合い、それが因となり、その後さまざまな縁をいただいき、今の自分が、「俺が」「私が」と主張して生きています。それはちょうど、雪が降って積もった後、雪を固めてゴロゴロ転がしていくと大きな球体となります。そして、それよりは少し小振りのものを作って、上に重ねて目鼻を付ければ、雪だるまが出来上がります。作り手によって、いや、作り手が同じであっても、一つとして同じものは出来ませんし、雪質や天候によっても、他さまざまな条件、それ等「縁」によって、個性豊かな雪だるまが出来上がります。そして、いずれ気温が高くなれば、融けて無くなってしまいます。すなわち、因縁生起、諸法無我、空即是色、色即是空ということです。

 話は換わりますが、実業家の故稲盛和夫氏は、誠に希有な経営者であると同時に、すばらしい人格者でありました。事を起こすときには、自身の動機に利己的な心、「私心」がないかと自問自答し、動機が善であり、実行過程が善であれば、結果は問う必要がなく、必ず成功するという信念をもっておられました。また、人のため、世のために役立つことを常に心掛けていれば、必ず善い縁が導かれて、善い成果がもたらされ、すばらしい運命が開けてくるという、「諸法無我」の教えを具現化し、自ら実践して証明して見せてこられました。氏の薫陶くんとうを受けた人たちが、日本のみならず、世界に広がりを見せています。稲盛氏が釈尊より受け継がれた「諸法無我」の法灯は、氏亡き後も我々が、大事に、大事に引き継いでいかねばなりません。

    (潮音寺 鬼頭研祥)

 


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