
潮音寺境内 クレマチス 撮影:超空正道
自 帰 依
子どもの頃、かくれんぼをしていて、ふと自分を意識したという記憶はありませんか? 多くの人が、だいたい十才頃にこのような体験をするのだそうです。つまり、自分は、母とも父とも、兄弟とも、友人とも違う存在であるということを、いわゆる思春期に入る前の段階で意識するというのです。よって、そのような意識の表れとして、幼児期は自分のことを、親がいうとおりに「○○ちゃん」といっていたのが、「わたし」とか「ぼく」「おれ」というようになるというのだそうです。
さて、そのような自分、成長していく過程は、ただ単に、身長と体重が増えるだけではありません。昆虫は、脱皮を何度か繰り返し、さらに変態することによって成虫となります。たとえば、幼虫の芋虫からサナギ、そしてチョウという具合です。それぞれ全く違った形態の変化の末に、きれいな羽の生えた成虫となります。人間の場合も、おそらく、外見上の大きな変化はなくとも、内面では、脱皮やサナギのような大変革の末に、大人になっていると思われます。自分自身振り返ってみますと、確かに、あのときは脱皮、あのときがサナギであったのではないかという、思い当たる節があるものです。
ところで、自分の「自」という漢字の成り立ちは、鼻の形にかたどり、ハナの意を表すのだそうです。自分のことを示すのに、鼻を指さす動作から来るものといいます。この自分、出来れば能力をフルに活用して、自信満々で、肩で風切っていきたいものですが、いかんせん、意気消沈して、消え入りたいと思うことがなんと多いことでしょう。自分のことなら何でも分かっていそうなものですが、実のところ、何ら分かっておらず、思いどおりにはいかないものです。動物たちを見ていると、人間であればそれこそ大変な苦労するであろうと思われる状況でも、取り乱すこともなく平然と生きているように見えます。人間はなぜ、悩み苦しむのでしょう?
仏伝に、こんな話があります。コーサラ国の王であったパセナディ王が、マッリカー夫人に「この世でいちばん愛しいのは誰か?」と問いました。「それは自分自身です」という夫人の答えに疑問を抱くも、「王様はいかがですか?」と問われてみれば、自分とて否定しがたいものがあり、そのことを釈尊に尋ねると、「その通り、他の人々にとっても自己は、誰よりもいちばんに愛しい。それゆえに、自分と同じように自己を愛しく思っている他を害してはならない」と説かれたといいます。
自分というものは、己を中心に物事を考えますから、「こんなにも愛してやっているのに、我が身が可愛とは何事か!」となったら、喧嘩になります。しかし、自身を振り返ってみれば、我が身をいちばん可愛がっている自分を発見いたします。つまり、この「己が」という「我」が、障りとなって、さまざまな悩みや苦しみが生じてくるのです。
道元禅師が『正法眼蔵』で、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。…… 」といっておられるのはこのことです。人間が苦悩するのは、自分のことが分かっていないからであり、釈尊の教えである仏法を学ぶということは、真理を探究するということですが、畢竟、自己を知るということに他なりません。
自分という人間が、この世にひとり存在し、幼児期、思春期、青年期、壮年期、老年期というそれぞれの過程において、悩み苦しみ生きていかねばなりません。自分のことや世の中の仕組みに疎いと、不安から解放されることがなく、常に迷い悩まなくてはなりません。幼児期の時のように、いつまでも親や他人に依存しているわけにはいきません。しかし、自己を知り、世の中の法を知ることが出来れば、そんな自分を信頼することが出来るようになります。最古の経典といわれる『法句経(ダンマパダ)』には次のように書かれています。
『法句経』一六〇番
おのれこそ おのれのよるべ
おのれを措いて 誰によるべぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことえがたき よるべをぞ獲ん
『法句経』二三六番
爾 おのれの燈となれ
すみやかにいそしみて
賢き者となるべし
けがれをはらい 著をはなれて
とうとき
聖地にいたるべし(友松圓諦訳)
これが、有名な「自灯明・法灯明」の教えです。法に裏打ちされた自己こそが、よるべ(頼り)となり得るというのです。ただ、自己を知ることは、己の愚かさを知ることでもあります。そんな自分を帰依できるまで、ひたすら精進することが仏道なのです。
(潮音寺 鬼頭研祥)