乾坤輝く
令和7年の干支は乙巳(きのと・み)ということで、巳年の方にはたいへん失礼かとは存じますが、十二支の中で、おそらくいちばん人気のない動物ではないでしょうか。しかし、蛇は洋の東西を問わず、古来より神の使い、あるいは、神そのものとして崇められたり、畏れられたりしてきました。日本では、神話に登場するあの八岐大蛇がそうですし、山口県の岩国の白蛇は、天然記念物として大切に保護されていて、岩国白蛇神社にも祀られ、福運金運をもたらしてくれるということで信仰を集めています。また、白蛇に限らず、その抜け殻を財布に入れておくとお金が貯まるといって、お守りにする方も多いようです。
旧約聖書の創世記に出てくる蛇は、イブをそそのかして、神から決して食べてはいけないといわれていた「善悪を知る木」からその実、いわゆる「禁断の実」を採って食べさせます。ここでは、蛇は悪魔の使いとして登場します。
ギリシャ神話においては、医術の神アスクレピオスの持っている、蛇が巻きついた杖を「アスクレピオスの杖」と呼び、欧米では医療・医学を象徴するマークとしてよく使われ、日本でも救急車の車体に描かれたり、世界保健機関のマークにもなっております。
ところで、十二支には、蛇に似ている想像上の動物、竜(旧字体では龍)がいますが、その起源は、インド神話に登場する、ナーガであるといわれます。それは、インドコブラが神格化されたもので、大海あるいは地底の世界に住むとされる人面蛇身の半神です。彼等の長である竜王は、巨大で猛毒をもつものとして恐れられた半面、降雨を招き大地に豊穣の恩恵をもたらすとして信仰の対象となっていました。仏伝にもたびたび登場し、仏法の守護神、八部衆の中にも入っています。特に法華経の会座に列した八大竜王がよく知られています。
中国には、古来、鱗虫(蛇など鱗のあるもの)の長として竜というものが考えられていたということですが、梵語経典を中国語に翻訳するとき、ナーガを竜と訳したため、融合が起こり、現在われわれが知っているような竜の姿となったようです。ですから、仏典に出てくる竜は、本来は蛇と言うべきなのかもしれません。ただ、水神として信仰されている点では共通性があります。
他に、仏典に登場する蛇としては、釈尊の言葉を収録した最古の聖典『スッタニパータ』の第一が「蛇の章」となっています。全部で十七偈ありますが、二偈のみを紹介します。
①蛇の毒が(身体に)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである。
②走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである。
ここでは、蛇が脱皮して成長するように、仏道を修行する者は、煩悩の殻からを脱ぎ捨てなくてはならないと諭しています。慣用句に「一皮むける」という表現がありますが、おそらく、ここらあたりから来ているのではないでしょうか。
またもう一つ、「四蛇の譬喩」というのが、『金光明経』や『北本涅槃経』に見えます。仏教的世界観である、万物の構成素とされる四大(地・水・火・風)が相剋しせめぎ合って安定を得ないさまを、一つの箱の中の四匹の蛇が互いに殺傷し合うのにたとえたものです。つまり、四大からなる人間の身体も、四大の相剋によって病苦を生じるというわけです。たしかに、自分自身を顧みても、一時安定したかと思うと、何かしらまた不安定なことが出て来て悩まされ、人生そんな繰り返しのように思われるのは、体内で四匹の蛇が暴れているからかもしれません。
さて、新たな一年のスタートです。元日にふさわしい禅語として「日出乾坤輝(ひいでてけんこんかがやく)」があります。乾坤とは天地のことで、日の出の生気に満ちた景色をいい、それは、新しく迎える年への希望と期待でもあります。ここで忘れてならない大事なことは、自分自身が輝やいていないかぎり、天地宇宙は、決して輝いて見えることはないということです。体内の四蛇をなだめすかし、どうか、皆様にとって、一皮むけた輝ける佳き年になりますよう、心より祈念いたします。
(潮音寺 鬼頭研祥)