みかえり法話


法話7月

撮影: 超空正道

ちょう

 以前、「のん」という看板のかった居酒屋さんを見つけたことがあります。私は下戸なので、そこに立ち寄ったわけではありませんが、その屋号がいかにも飲み屋さんらしく、会ったこともない大将の顔を想像して、楽しくなったことを覚えています。
 「のんき」といいますと、気分や性格がのんびりしていて、楽天的な人を形容していう場合が多いですが、一方では、気楽・安易・不注意・無神経といったことをするといった側面もあります。頑張る・努力・精進・奮闘・粉骨砕身といった精神とは無縁の世界にいるということで、批判の対象になることもまれなことではありません。仏教においても、しかりです。仏典に「こくびゃくたとえ」というお話があります。
 一人の旅人が広野を歩いていきますと、突然恐ろしい狂象が現れて迫ってきました。旅人は驚いて一目散に逃げました。幸い古井戸があり、その中に一筋のふじづるが垂れ下がっています。天の助けと、彼はふじ蔓をつたって井戸の中へ隠れました。一安心して下の方を見ますと、その井戸の底には、大蛇が大きな口をあけて、旅人の落ちて来るのを、今か今かと待ち受けています。上には狂象、下には大蛇、まさに絶体絶命、命の綱はふじ蔓一本です。やむなく足を井戸の側面に突っ張ろうとしたところ、四匹の大きな毒蛇が今にも噛み付こうと鎌首をもたげてきます。
 さらに、耳を澄ますと、そのふじ蔓の根元のところで、なにやらガリガリという音がしています。よく見ると、横穴から一匹の白鼠が顔を出して、ふじ蔓をかじっているではありませんか。白鼠が穴に引っ込むと、今度は、黒鼠が顔を出してかじっています。「もう駄目だ。助からない」と天を仰ぐと、ポタリポタリと甘い蜜が、五滴口の中に入ってきました。ふじ蔓の根元に蜜蜂の巣があって、そこから甘い蜂蜜が垂れてきたのです。旅人は、その蜜の甘さにそれまでの恐怖はどこへやら、また蜜が落ちてこないものかと、口を開けて待っているのだった――というものです。
 この比喩は、次のように解釈されています。
 旅人とは、人生を旅をしている私たちのこと。狂象とは時間の流れのこと。私たちは、毎日毎日、時間に追われて暮らしています。逃げることはできません。井戸の底の大蛇は死の影、今すぐにでもと待ち構えています。四匹の毒蛇とは、人間の体を構成している四大(地水火風)、どこに毒が回っても命はありません。一本のふじ蔓は命の綱、すなわち、人間の寿命です。その寿命の根をかじっている白と黒の鼠は、昼夜のこと。昼夜は繰り返され、私どもの命は一日一日と縮まります。五滴の蜂蜜とは、五欲のこと。食欲・色欲・睡眠欲・名誉欲・財欲、どれもが、人間にとって甘く魅惑的です。
 以上、この比喩はとても示唆に富んでいます。かのロシアの文豪トルストイも、その著『わが懺悔』で「古い東方のぐう」として紹介しています。川柳に、「いつまでも生きている気の顔ばかり」というのがあります。芭蕉の句にも、「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」というのがあります。ここには、「人間も蝉も、明日の命か分からぬのに、まあのんきなもんだ」といった気持ちが込められているのだと思います。ならばひるがえって、彼の旅人、私たち、蝉はどうすればよいのでしょうか。
 われわれは、努力精進すればなんとかなると思っている節があります。うまくいかないのは、努力が足りないというわけです。しかし、世の中そう単純ではないようです。心理学者の河合隼雄が、ジッドゥ・クリシュナムルティの「物事は努力によって解決しない」という言葉を紹介しておられます。確かに、彼の旅人は、どんなに努力しようが、危機的状況が改善されるとは思えません。
 もちろん、努力しなくてもよいということではありません。河合氏は、「道草」「遊び」の必要性を説いておられます。つまり、しゃかりきになるだけでは駄目なんで、視点を変え、心に余裕を持ちなさいということだと思います。そうしてみると、彼の旅人が、「蜜が落ちてくるのをボーッと待っている」、ということです。落ち込むでなく、「いつまでも生きている気の顔ばかり」「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」、それがいいのです。
 仏教では、「色即是空」といって「空即是色」、「生滅」するといって「不生不滅」であるといいます。矛盾するようですが、こうしないと本当のことが分からないのです。「精進」も大切ですが、「のん」も捨てたもんではありません。頑張りすぎている人に、「暢(のびのび)」の一字を贈ります。
    (潮音寺 鬼頭研祥)

 

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