みかえり法話


法話2月

京都市 城南宮 梅と落ち椿 撮影:超空正道

にちにちこれこうにち

 女優樹木希林の最晩年の映画作品で、茶道の先生役として重要な役割を果たしている「にちにちこれこうじつ」という映画を観ました。。主人公は黒木はるが演じる、自分に自信が持てない女子大生で、卒業後も決まった就職もできず、結婚もままならないのではあるが、茶道を通して、女性として、人間としての生き甲斐のようなものを、確たるものではないが、何かを掴みながら、成長していく物語です。
 エッセイスト森下典子の自伝を映画化したもののようですが、スーパーヒロインとは言えない、ごくありふれた主人公が、若い頃に誰もが抱くような劣等感を少しずつ克服していく様を、何気ない日常を描く中で展開していきます。冒頭で、「イタリア映画のフェリーニ監督の『道』を十歳の時、親に連れられて観たことがあるが、何がいいのかさっぱり分からなかった」という語りから始まりますが、これが重要な伏線となっています。
 私自身を振り返ってみますに、成長過程において、どうしても他人と比べて、体力、知力、精神力、財力、容貌等々に負い目を感じ、時には、何で自分というものが生まれてきたんだろうと思うことがありました。しかし、幸いにも、多くの人がそうであると思うのですが、そこそこに折り合いを付けて、何となく生きてきたというのが、実態のような気がいたします。
 しかし、中には、それこそ死ぬ程に思い詰めて、自ら命を縮めてしまう人がいることも事実です。冒頭の語りにあるイタリア映画、「道」の主人公ジェルソミーナは、ただ同然で身売りされた、頭は弱いが純真無垢な女旅芸人です。粗野で暴力を振るう親方のザンパノに嫌気が差し逃げ出すのですが、そこで陽気な綱渡り芸人イル・マットに出会います。彼から、「石ころにも価値がある。この世に価値のないものはない」と励まされ、前を向いて生きようとするのですが、彼は、からかわれた仕返しということで、ザンパノに目の前で撲殺されてしまいます。放心状態なったジェルソミーナは、芸人として役に立たなくなったとして、置き去りにされ捨てられてしまいます。そして数年後、ザンパノは彼女が、ひとり寂しく死んでいったことを知り、自分にとって、彼女は大切な存在であったことに初めて気づき、砂浜で泣き崩れてもだえ苦しむところでこの映画は終わります。
 さて、我々の多くは、ジェルソミーナが味わったような疎外感、絶望感は体験していないでしょうが、「日日是好日」の主人公典子のような悩みは、「そう言えば自分もそうだった」と共感できるところが多いのではないでしょうか。はたから見れば、取るに足らないようなものかもしれませんが、自分にとっては、捨ててはおけない重大な問題であったはずです。
 そこで「日日是好日」の映画を通して作者の意図するものは何であるか考えてみると、原作の副題―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―がそのまま答えになろうかと思います。詳しい一つ一つには触れませんが、第十三章に「雨の日は、雨を聴くこと」とあります。茶道と仏教とは、密接な関係にあります。茶室に掲げられる書は、禅語が多く、「日日是好日」という映画の題名もそうです。表記の仕方が「日々是好日」であったり、読み方も何通りもありますが、「毎日毎日がすばらしい」ということです。雨を通して、しあわせ(好日)になる方策を考えてみましょう。
 普通、出かける時に雨が降っていようものなら、舌打ちして文句の一つも言いたくなります。しかし、雨は自分に意地悪をするために降っているわけではありません。自分が今直面している悩みや障害にしても、自分だけを苦しめるために降りかかっているわけではありません。慈雨というのは、日照りつづきのあとに降る雨のことを言うのですが、雨は作物を育てるために必要不可欠なものだからです。自分に直面している障害も、実は、未熟な自分を成長させてくれる慈雨となり得るもののはずです。雨を嫌って、家の中に閉じこもっていては、雨の本質は分からないでしょう。時には、土砂降りの中に飛び込み、時には、雨音に聴き耳をたてて、外の景色を眺めていると、今まで気づかなかった雨の本当の良さが見えてくるものです。
 『へきがんろく』には、うんもんぶんえんが、弟子たちに「ここまでの15日間のことは問わないが、これからの15日間をどうするか一言で言ってみよ」と問い、それに自ら答えて「『にちにちこれこうにち』と述べたというが、これはどういうことか」とあります。つまり、過ぎたことはくよくよせず、これからのことは、自分勝手な物差しで善し悪しを判断することをめ、思いがけない災いにも、新鮮な出遭いと受けめれば、「日々是好日」になるということでしょう。

       (潮音寺 鬼頭研祥)


 

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