奈良県 曽爾高原 撮影:超空正道
去 此 不 遠
はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。(中略)
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。……
これは、ご存じ『旧約聖書』「創世記」の冒頭の部分です。仏教哲学者で、特に禅を西洋に紹介されたことで知られている鈴木大拙師(1870~1966年)が、キリスト教徒から、「仏教とは何か?」と問われたとき、「神が万物を創造された後、世界を一瞥して『良し(Good)!』と言われた、この『Good』が分かるようになること、そしてさらに、『光あれ』と言わぬ前の神をひっ捕つかまえるのが仏教の極意だ」と答えられたと言うことです。
どう言うことかというと、この世界は、生物が住むには、さまざまな天変地異の災いから避けることの出来ない過酷な環境です。さらに、そこに住む人間はというと、強欲で戦闘を好み、煩悩にまみれて生きているが、そのすべてが、神の意思によって創り出されたものであり、それらすべて認めた上で、「良し(Good)」とされているということです。
つまり、今仮に、自分が、厄難にあい悲嘆のど真ん中にあったとしても、神は「良し(Good)」とされているということです。では、かような不平等で、理不尽と思えるような世界を創り給うた神が、「光あれ」と言わねばならなかったその神の真意を探るのが、仏教であるというのです。
いかにも禅家らしい、『聖書』の解釈の仕方です。仏教の華厳には、事事無礙という教えがあります。現象界を四つの見方(四法界)で理解するものです。
◉ 事法界 我々凡人が、差別の眼で見る普通の物の見方。
◉ 理法界 すべての物に実体はなく、空であるという超差別の見方。
◉ 理事無礙法界 実体がなく空であるという理と具体的な物事が、妨げあわずに共存しているという見方。
◉ 事事無礙法界 一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事が、融通し合って妨げあわずに共存しているという見方。
例えば、事法界においては、善と悪とに区別せざるを得ないと思えるものでも、事事無礙法界からすれば、互いの因縁が絡み、互いが融通し合っているのであり、差別すべきものはなく、障りなく共存しているものであるという世界観です。
また、『法華経』では、諸法実相という教えが説かれています。さまざまな解釈の仕方もありますが、これを、「すべてのものは、それぞれに存在価値がある」と受け取ると、今自分が排除したいと思っている悪の対象も、全体から見渡せば、共存すべき意義あるものということになります。
つまり、事事無礙も諸法実相も、今あるがまま、それで「良し(Good)」ということです。敵対する相手が
いることも、ミスをして大失態をしたとしても、災難に遭って悲痛の極みにあっても、それで「良し(Good)」
なのです。我々は、善悪・黒白・清濁・可否とか、貧富や苦楽といった具合に、物事に優劣を付けて、なんとしてでも、一方を排除したいと思いがちです。しかし、もしその相手を殺し排除してしまうと、事事無礙にして、調和共存がとれていたはずのものに破綻が生じ、結局、自らも殺してしまうことになるのです。
かようにして、我々が住むこの世界においては、たとえ悶着・軋轢・紛争・異変があったとしても、智慧を出して、あくまで融和共存を図っていこうとすることが、仏教が目指す生き方ということになります。その意味で、この娑婆(梵語サハーの音写、忍土・忍界と訳す)は、互いが忍耐すべき世界であるということに相違ありません。一方、仏の世界は浄土、特に、阿弥陀仏の浄土「極楽」は、全く苦患のない安楽な世界で、浄土教では、念仏行者は死後、ここに往生を遂げることが出来ると説くのです。
さて、その極楽は、『無量寿経』『阿弥陀経』には、「西方十万億の仏土を過ぎたかなた」にあると説き、『観無量寿経』では「ここを去ること遠からず」と説かれています。明らかに矛盾します。しかし、私自身、後期高齢者になりまして、亡父母がいるであろう極楽が、日に日に身近に感ずるのです。慌てるつもりはありませんが、待ち遠しく思うのであります。南無阿弥陀仏。
(潮音寺 鬼頭研祥)