白鳥庭園 撮影:超空正道
三輪清浄
近年、ギニアから始まったエボラ出血熱の流行、中国から世界中に広まったコロナなど、致死率の高い感染症の流行が大きな国際問題となりました。世界をあげてウィルスの解明や治療薬の開発が行われ、危機を乗り越えてきました。当初はワクチンの奪い合いの様相がありましたが、アフリカなど医療施設の未整備な場所であっても、国連のような公的機関が支援活動を展開し、国際協力は本当に頼もしく、ありがたいことと実感させてくれました。
一方、民間においては「国境なき医師団」の存在が大きな力となっています。どのような団体であるか、詳しいことは調べておりませんが、その精神に賛同し、私もその都度、ささやかながら、寄付をさせていただいております。ちなみに、そのスローガンというか、憲章を次に引用させていただきます。
憲 章
国境なき医師団は苦境にある人びと、天災、人災、武力紛争の被災者に対し人種、宗教、信条、政治的な関わりを超えて差別することなく援助を提供する。
国境なき医師団は普遍的な「医の倫理」と人道援助の名のもとに、中立性と不偏性を遵守し完全かつ妨げられることのない自由をもって任務を遂行する。
国境なき医師団のボランティアはその職業倫理を尊び、すべての政治的、経済的、宗教的権力から完全な独立性を保つ。
国境なき医師団のボランティアはその任務の危険を認識し国境なき医師団が提供できる以外には自らに対していかなる補償も求めない。
以上
人間というものは、戦争ともなりますと、神のため、正義のためと大義名分をかかげ、殺戮を正当化し、多くの犠牲者を出し、後には悲嘆と恨みだけが残ります。その一方で、我が身の危険を顧みず、そのような戦地に赴いて、傷病者の看護に従事したり、あるいは、伝染病が蔓延する所で献身する「国境なき医師団」のような方々もおられるということで、人間とは、実に不可解な存在であるともいえます。
人間における美しく崇高な行為であるボランティア(volunteer)の原義は、志願兵(対語が draft―徴集兵)で、歴史的には騎士団や十字軍などの宗教的意味を持つ団体にまで遡ることができるということです。現在では、一般的に、自主的に無償で社会活動などに参加し、奉仕活動をする人を指しますが、やはり、その根底には、宗教的道徳観があると思います。これらのボランティア行為は、キリスト教での位置づけはよく知りませんが、仏教では六波羅蜜(大乗仏教の求道者が実践すべき六つの徳目)の第一に挙げられている布施行がこれにあたります。
布施は、施す側と、それを受け取る側があって初めて成り立ちます。その関係は「三輪清浄」でなければなりません。三輪清浄とは、施す人、受け取る人、施す物が、いずれも清浄でなければならないというものです。施す物は、お金、品物、労力、笑顔、愛語、安心、健康等々、相手にとって有益となるもの、しかも、それが清浄であることが肝心で、盗んだ物や、欲得に汚れた物でなければ何でもよいわけです。
ですから、国境なき医師団のような活動は、正に布施であります。ただ、医療関係の方でないとこの活動はできません。ならば、この活動に参加できないかといえば、そうではなく、寄付金を団体に送らせていただく、これも、りっぱな布施になるわけです。
そして、布施のことを喜捨ともいいます。つまり、喜んで捨てることだというのです。布施をした、布施を受けた人、施した物、その三つを瞬時にお互いが忘れること、これが布施の極意であり、最上の布施であるというのです。ところが、我々は、「つまらものですが」といって、自分が要らなくなった、貰らっても困るような物をあげたり、「海老で鯛を釣る」ではありませんが、あげた以上の見返りを期待しての行為であっては、とても布施とはいえません。
つい先頃も、政治と金ということで、自民党が多くの議席を失いました。政治といわず、人間の行動は、どうしても損得勘定に左右されてしまいます。あげる立場、貰う立場、どちらの立場にあっても、この三輪清浄の精神を忘れないように、肝に銘じておきたいものです。
(潮音寺 鬼頭研祥)