
稲沢 大塚性海寺歴史公園 紫陽花 撮影:超空正道

熊谷直実「東行逆馬」の図
欣 求 浄 土
先般、上図のような掛け軸を入手しました。初めて見る方ですと、「これはいったい何をしているの?」と思われるかもしれません。昭和の作家によるものですが、「東行逆馬」という逸話をモチーフとして描かれたものです。
馬上の人物は、法力房蓮生といいます。俗名は熊谷直実といい、平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵国熊谷の出身の武士です。源頼朝挙兵の当初には、平氏軍の一員として戦い、その後頼朝の家人となり、源義仲との戦い、一ノ谷の戦いなどに活躍して一騎当千(ずば抜けて強い勇者のこと)と称せられました。
一ノ谷の戦いで平敦盛を斬ったことは特に有名で、『平家物語』や謡曲の『敦盛』にも感銘深く語られているところです。ところが、自分の息子ほどの敦盛の首を取らねばならなかったということに無常を感じ、また、一族との領地紛争にも巻き込まれ、俗世に嫌気をなして鎌倉を去り、京都で法然上人の下で出家したという経歴の持ち主ですが、豪快一途な人だっただけに、いくつもの逸話が語り伝えられております。
直実五十三歳のとき、法然上人の草庵を訪ね、「今までに大勢の人を殺してきた。このような者でも救われる道はあるのか」と、法然上人に真剣に問うたところ、「罪の多少にかかわらず、南無阿弥陀仏と念仏を申せば誰でも往生できる」とお答えになりました。刀を研いで切腹するか、手足の一本も切り落とそうとまで思っていた直実は、その場で号泣して法然の弟子となり、泥中にあっても、清らかな花を咲かせる蓮のごとく生きるようにと、蓮生という名を与えられました。
出家して翌々年、この弥陀の御慈悲を、ぜひとも一族同輩とも分かち合いたいと熊谷に向かいます。その時の逸話が、この「東行逆馬」です。東に向かうにあたり、弥陀の在す西方極楽浄土に背を向けてはならないと、馬の鞍を逆さまに置かせ、馬の頭の方に背を向けて乗り、馬子に引かせて下向したといいます。
またその途中、小夜ノ中山で盗賊に遇い、 取り押さえることは雑作のないことでしたが、それでは短気がなおらんと、盗賊に旅銭、法衣らすべてを与えてしまったといいます。
しかし、路銀に困り、藤枝宿の富豪、福井憲順に借用を申し出ますが、当然渋ります。ならばと、南無阿弥陀仏と称える蓮生の口からは、まばゆい金色の化仏が現れ、憲順の体中に移り、さらに南無阿弥陀仏と九遍称えると、十体の阿弥陀仏が憲順の体中に収まりました。これには憲順夫婦大いに驚き、蓮生に銭と必要なものを与えたといいます。
翌年、蓮生は帰洛の途、路銀返済のため憲順の屋敷を訪ね、憲順に南無阿弥陀仏と称えさせると、口から阿弥陀仏が一体一体出てきて、蓮生の体中に戻っていったといいます。しかし、最後の一体だけは、憲順の願いで体中に留め置いたということです。
憲順は夫婦共々この教化により念仏に帰依し、福井家をそのまま念仏の寺とし、蓮生を開山となし、それが今日まで続く熊谷山蓮生寺ということです。これは「念仏質入れ」の逸話と呼ばれています。蓮生が開基とされる寺は、この蓮生寺の他、岡山の誕生寺(法然上人生誕地)を始めとして十ヶ寺、縁の寺を含めると二十ヶ寺にもなり、その行動力と魅力はたいしたものであったといわざるを得ません。
そして、蓮生の最期がこれまた見事でした。承元二年(1208)二月八日に自分は往生すると宣言します。その当日、群衆に囲まれた蓮生は礼盤上に座して、高声で念仏を称えながら往生を待つも、突然、念仏をやめてしまい、半年先に延期するといい放ちます。群衆の中には嘲り笑う者もいたが、弥陀のはからいと、悪びれる様子もなかったといいます。それから半年後の九月十四日(四日とも)、蓮生は、沐浴し袈裟を着け端座合掌して念仏し、群衆見守る中、蓮生の息は絶え、その場に立ち会った人々は、 「法力房は、自ら願った上品上生の往生を果たした」と讃えたといいます。蓮生享年六十八歳、無骨で実直で頑固者、そんな念仏者の見事な最期でした。
さて、われわれの人生、そうは思い通りになるものではありません。だからといって、旅するときには目的地を定めるように、人生の旅路も、目標は定めておかねばなりますまい。蓮生は、欣求浄土、終着目的地を西方極楽浄土と決めてからは、法然上人の教えどおり、智者のふるまいをせずして、ただ愚直に浄土往生を願い、自分自身が思い描いたとおりに、人生を全うしたといえるのではないでしょうか。このような人生を誰もが出来る訳ではありません。故に、蓮生の生き様、死に様にわれわれは感動するのでありましょう。
(潮音寺 鬼頭研祥)