
岡崎 岩津天満宮の東山梅苑 撮影:超空正道
倶会一処
七年くらい前でしょうか、右脚全体に神経痛が走り、難儀したことがあります。腰骨がぐらついていることから来る症状とのことです。いわゆる老化現象によるものですから、仕方のない病気といえばそれまでですが、そうもいっておられません。人間にとって、痛みというものは、思考回路を停滞させ、生活全般にも影響が及びますので、何らかの対策を考えないといけません。
ところで、われわれは死ぬ身であり、そのことは誰でも認識しております。しかし、十七世紀のフランスのモラリスト文学者のラ・ロシュフーコーが『箴言集』において、「太陽と死は直視できない」と指摘しているように、自分の死というものは、眩しすぎてあえて見ようとはしません。むしろ、若い頃は特に、自分には死は当分やってこないと高をくくって生きておりますが、どっこい、私のように死ぬまで続きそうな痛みに突然出くわしたりすると、狼狽するんですね。
近年、スピリチュアルペインという言葉をよく耳にします。この「キーワード」の解説には、次のようにあります。
終末期患者の人生の意味や罪悪感、死への恐れなど死生観に対する悩みに伴う苦痛のこと。「魂の痛み」とも訳される。世界保健機関(WHO)は、、肉体的(フィジカル)、精神的(メンタル)、社会的(ソーシャル)の三つの面から健康を定義してきた。しかし、一時期、人間の尊厳などを視野にスピリチュアル(霊、魂)を加えた議論があったことで広く知られるようになった。緩和ケアの領域では、薬や社会制度などで取り除けないこの痛みを癒やすことが重要な役割とされる。
ということですが、スピリチュアルに対する宗教観の影響を避けるためか、健康の定義はなかなか理解しにくい面があります。
以下は、祖父江省念師という有名な説教師から聞いた話です。
いつも説教を聞きに通っていたお婆さんが来なくなったので、電話をすると、「脚が痛くて行けなくなった」というのです。そこで「いよいよ、あんたもリョウマチになったか」というと「リョウマチではありません」という。そこですかさず、「役に立たなくなった婆さんは、家族に嫌われ、嫁はあんたが死ぬのを待っとる。地獄では、鬼がおみゃさんが来るのを、手ぐすね引いて待っとる。両方で待っとる。それなら、リョウマチ(両待ち)ではないのか」といったというのです。
これは落語のような話ですが、かのお婆さんにとっては、脚の痛さもさることながら、両待ちされているとの思いがスピリチュアルペインとなって、笑い事では済まされぬ痛みにさいなまれていたに相違ありません。
仏教においても、生老病死は、自らでは思うがままにならない、四つの苦しみであると説きます。それをどうにかしようと思うと余計に苦しみが増幅することになり、何ともならないものであれば、そこから脱却する方法は、ただ諦める外ないというのです。冷たく突き放すようではありますが、現実を見極め、本当のことが分かって明らかになったときを、諦めるというのだと教えています。
さらに、浄土教においては、この世での命果てた先の安心について説いています。『阿弥陀経』には、極楽浄土への往生を願えば、仏・菩薩・親しかった人たちとも、倶に一つの処で出会うことができる(倶会一処)とあります。胸が張り裂ける思いで、最愛の人との離別を余儀なくされる者にとって、これほど有り難いことはなく、それは、唯一の救いとなるものです。
法然上人には、素晴らしい歌がいくつもあります。その一つに、上人が七十五歳の高齢で流罪になられたときに、庇護者であった九条兼実が、自身の力が及ばず今生の別れともなりかねない、悲しい別離の思いを歌に詠まれたとき、そのお返えしとして、逆に兼実公を慰められた歌があります。
露の身はここかしこにて消えぬとも
心は同じ花のうてなぞ
(露のようなはかないこの命、いつどこで尽きようと、念仏する者の思いは一つ、極楽浄土の同じ蓮華の座で再びまた会える)
このような法然上人でありましたから、八十歳になられて、病に伏せられたときには、「浄土を願う行人は、病患をえて偏にこれを楽しむ」と仰おおせられたといいます。人間には、さまざまな一生があります。そんな中、自分と同じような思いで難儀されている方や乗り越えられた方が必ずいるものです。ですから、わたしたちは謙虚に「子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」の心掛けと、いよいよというときには「倶会一処」を心の支えとしたいものです。
(潮音寺 鬼頭研祥)