
長野県駒ヶ根市 千畳敷カール 撮影:超空正道
刹 那 無 常
当山の本堂には、掛時計があります。この時計は、沢上商店街で山田時計店を営まれていた、檀家の方から寄贈していただいたものです。時計の裏側に「55.6.1」と記してあり、昭和55年(1980)ということであれば、今年で46年目ということになります。それ以前のものはというと、昭和34年に木造の旧本堂が建ったとき、やはり同じ方から寄進を受けた、木枠でできた大きな丸いゼンマイ式の振り子の掛時計でした。今も保管してあり、ネジを巻けば多分動くはずです。私が小中学生だったころ、月に何回かはネジを巻いていたように記憶しています。
ところが、今時の時計は電池を入れ換えるだけで、極めて正確な時を刻んでくれる電波時計が主流になっています。そこで最近ふと、何十年も前に頂いた本堂の掛時計は、電池を入れ換えてからもう何年にもなるが動いているし、時刻も正確で直したことがないし、一体どんな方式で動いているのかを調べてみたくなったのです。
そこで、最近は腰が弱くなって高いところが苦手ではありますが、脚立に登って文字盤を見ると、「QUARTZ」とありました。いわゆる水晶(クオーツ)時計です。時計の歴史を調べてみましたら、世界初のクオーツ掛時計が発売されたのは昭和43年(1969)、翌年12月25日には、世界初のクオーツ腕時計がセイコーから発売され、この時計の価格は45万円で、これは当時の大衆車と同等の価格であったということです。してみると、現在ある本堂の掛時計は、世界初から12年たってからのものといっても、かなりの高額であったと推測されます。
ところで、私は趣味で、孫たちの誕生日に、ベニヤ板を加工して置時計を作ってプレゼントにしています。その時計の水晶(クオーツ)ムーブメントは、ネットで僅か数百円で購入できます。どうしたらそんなに安く出来るのか不思議ですが、時間というものの貴重性を考えたとき、あまりに時計の値段が安価であるということは、素直に喜べないところがあります。
ときに、時計は時刻を示したり、測定するための装置です。今日において世界標準となっている時間の単位は「秒」で、昔は地球の自転周期が基準でしたが、現在はより精密なセシウム原子核の物理現象で定義されているそうです。60秒が1分、60分が1時間、24時間が1日、7日が1週間、30日が1月、365日が1年、月と年に関しては相違する場合もありますが、これらが、一般に我々が考えている時の単位ということになります。
では仏教ではどうでしょうか。仏教においては、「刹那」と「劫」という単位があります。
「刹那」は、仏教における最小の時間単位で、サンスクリット語クシャナを音写したものです。その長さについては、一弾指(一回指を弾く)の間に65刹那あるという説や、75分の1秒に相当するとする説などの異説があります。「刹那生滅」あるいは「刹那無常」といって、この世の存在物は、実体を伴ってあるようにみえるが、実際には、一刹那ごとに生滅を繰り返していて、あらゆる現象は変化してやむことがなく、瞬時たりとも同一のままでありえないという「諸行無常」を説明する場合に使われます。
一方、「劫」はサンスクリット語カルパを音写した「劫波(劫簸)」を省略したもので、非常に長い時間のことをいいます。これも諸説ありますが、一辺四千里(約二千キロ)の城に芥子粒を満たし、その中から、百年に一粒の芥子を取除いて、すっかり芥子がなくなるほどの時間(芥子劫)、あるいは、一辺四千里の岩を百年に一度布でなで、岩がすり減って完全になくなるほどの時間(磐石劫)と表現されます。
また、四劫といって、一つの世界の形成から次の世界の形成が始まる前までの変遷を4期に分け、宇宙の循環を表現する場合にも使われます。宇宙の一点にある地球は現在維持され継続(住劫)し、我々は存続してますが、いずれ破壊され消滅(壊劫)し、一切なにもなくなり(空劫)、そしてまた次の宇宙世界の形成が始まる(成劫)といいます。『倶舎論』によれば、住劫のときには、人の寿命が無限大からしだいに減って十歳になり、次にしだいに増えて八万歳になり、またしだいに減って十歳になりと、これを十回繰り返すといいます。
つまり、仏教においては、刹那という概念から、一瞬一瞬を大切に生きることを強調し、劫という概念からは、過去・現在・未来が連続しているだけでなく、循環するものであることを説くのです。それは、無始無終、自分という人間が、善いことをしたか悪いことをしたかということ、すなわち、人の行為(業)というものは、けして、一代限りのものではないということです。そう、善因善果・悪因悪果、己の善き行為は善い流れ、悪しき行為は悪い流れの循環を生み出してゆくのです。
(潮音寺 鬼頭研祥)