みかえり法話


法話12月

徳川園(撮影:超空正道)

にょにょ

 好ましくないとは知りつつ、あなどったり、中傷したり、あるいは、茶化したり揶揄からかったりするとき、相手に対して「馬鹿」と言ってしまうことは、日常結構よくあることです。他にも、阿呆あほ・間抜け・愚か者・凡暗ぼんくら・たわけ・木偶でくの坊・いかれぽんち・頓馬とんま唐変木とうへんぼく・低能・無能・愚鈍ぐどん魯鈍ろどん等々、言われた方としては、当然のこととして、かりに冗談としても、あまり気持ちのいいものではありません。
 この「馬鹿」という言葉、語源を調べてみましたら、諸説あるようです。一番有力なのは、無知とか迷妄を意味するサンスクリット語mohaに相当する音写語というものです。ただ、その場合「莫迦」と表記された確かな文献はあるようですが、それが何時からどうして「馬鹿」となったのかとなると、今一つはっきりとしておりません。漢語の「破家」(家産を破る意)の転義という説もありますが、いずれにしても、愚かさを意味していることに変わりはありません。
 その他の語の語源については、およそ見当がつきますので省きますが、愚かさを意味するこれら、どれ一つとっても、自分がそうであると認めることは、なかなか辛いものがあります。
 『景徳伝灯録』巻五に、次のような公案(禅の問答)があります。
 修行僧であった馬祖道一ばそどういつが、毎日座禅をして励んでおりました。そこへ、師匠の南嶽懐譲なんがくえじょうがやってきて尋ねました。
 「何のため座禅をしているか?」
 「仏になるためです」
 すると南嶽は、庭に降り、落ちていた瓦を拾って、石で磨き始めました。
 「師よ、何をなさっているのですか?」
 「瓦を磨いて、鏡にしようとしておるのだ」
 「瓦を磨いても、鏡になるわけないではありませんか」
 「ならば、座禅をして仏になれるのか?」
 道一はがく然とします。これほど強烈な言葉はありません。私どもも、先生、あるいは上司や先輩から、無能さを突きつけられて、意気消沈してしまったという、これと似たような体験をされている方は多いと思います。では、どうすればよいのでありましょう。
 法然上人の遺言とも言われる『一枚起請文』によれば、「たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」とあります。
 つまり、鏡には成り得ない瓦のような愚かしい存在であることを認めるがよい。そうして、自力ではなく、阿弥陀仏の他力にすがるがよいというのがその教えです。しかし、この他力にお任せをするということは、愚の自覚が大前提です。これが、易しそうで、実は難しいのです。道一がそうであったように、努力精進すれば、何某なにがしかの成果が期待できるのではないかと、小賢こざかしく生きようとしているのが、われわれ凡夫です。
 そこで、懐譲は打ちひしがれている道一に「牛車が動かないとき、車を打つか、牛を打つかどちらだ?」と問います。
 当然、自分が乗っているのは車ですが、動かすのは牛でありますから、打つのは牛でなくてはなりません。ところが、往々にして、座禅ならば座禅、念仏なら念仏をすることだけにとらわれて、大事な牛のことを忘れ、動かぬ車を打つばかりで、それでは悟りや安心あんじんは望めません。
 そこで懐譲はさらに、「お前は、座禅を学ぼうとしているのか。それとも、仏になることを学ぼうとしているのか。座るだけが座禅ではない。また、仏には決まった形や相があるわけではない」と諭します。
 つまり、方法と目的を分けるなということをいっているのです。禅門でいう座禅と仏を二つに分けて考えるなということです。浄土門でいうところの念仏と安心も、同様です。座禅が仏であり、仏が座禅、念仏が安心であり、安心が念仏であるということです。
 ということは、鏡に成り得ない瓦を磨くという行為は、けして愚行とはいえないということです。何にもならない無所得ということ、凡夫がする座禅、念仏はそうしたものです。だから、ただ、座禅をする、ただ、念仏をするだけです。そして、日常の行為すべてが、念仏であり座禅となったその姿を、法然上人は「一文不知の愚鈍の身」、洞山良介禅師は「愚の如く、魯の如し」といっておられるのです。われわれ凡夫が目指すは、何事にもとらわれない、この「如愚如魯」と心得て、肩の力を抜いていこうではありませんか。
     (潮音寺 鬼頭研祥)


 

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