みかえり法話


法話5月

 愛知県江南市 曼陀羅寺 撮影:超空正道

() (おん)

 『法句経』六十番に「眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い」という一節があります。しかし、一日は二十四時間で、一時間は六十分、一分は六十秒と定まっており、刻々と過ぎていくものであり、人によって、また状況によって長短があるわけではありません。それを、長く感ずるというのは、先ほどの『法句経』の後半に述べられる「正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死(しょうじ)の道のりは長い」ということになるのでしょう。
 私どもは、心身共に充実していて、事が上手(うま)くいっているときには、時が経つのを速く感じますが、何か障(さわり)があって上手くいっていないときには、遅く感じて苦痛が伴います。今、人生百年時代といわれます。われわれ、百年という寿命を、持て余すことなく生きることができるでしょうか。政治家にももちろん政策で頑張ってもらわねばなりませんが、自分自身の問題であると同時に、百年を生きるには他人の力を借りずには適わないことも確かです。「どうにかなるさ」と安易なつもりでいたのでは、本人には自業自得(じごうじとく)としても、他人を巻き込んで、多大な迷惑を掛けることになりますから、誰もが若いうちから真剣に考えておかねばなりません。私の父は九十五歳、母は九十三歳、百歳までは生きられませんでしたが、人間はどのようにして老い、そして、どのように死ぬかということを、身をもって教えてくれたと思っております。全ての人にとって、両親は、自分を育ててくれた恩があるということは当然のこと、人生を全うし浄土に向かう姿を見せてくれる大事な存在であるということも、ぜひとも忘れないでおきたいものです。
 さて、私どもは、先が見通せないものには不安を覚えます。杞憂(きゆう)という言葉があります。中国の杞(き)の国の人が、天が崩れて落ちることはないかと心配したという故事です。あれこれといらぬ心配をする、取り越し苦労することをいいますが、大なり小なり、われわれは、展望が見渡せない将来に不安を抱いて杞憂し、神経をすり減らしています。
 物事には、始めがあれば終わりがあると、普通は考えます。自分に置き換えると、自分の始めは生まれたことであり、終わりは死ぬことです。その死に至る過程と、その先のことが、われわれには展望できません。そこで不安になり、あれこれと杞憂が始まります。
 一神教の世界観の場合、神が天地を創造し、何時か分かりませんが最後の審判が下り、善人は永遠の祝福に、悪人は永久の刑罰に定められて終決するといいます。これでは、神に怯(おび)えることはあっても、不安を払拭(ふっしょく)するまでには至らないように思えます。
 科学の場合は、今から約138 億年前、超高温・超高密度状態のエネルギーが大爆発し、急膨張、そして急激な温度降下の過程で、今日の宇宙ができたとするビッグバン理論が有力です。つまり、宇宙にも始まりがあるということで、してみると終わりがあるということになります。これまた、凡夫には杞憂の種となります。
 ところが、仏教では無始無終(むしむしゅう)を説きます。因縁生起を考えれば当然そうなります。われわれ衆生が、因と縁によって生死を繰り返して輪廻(りんね)すると同様に、世界・宇宙も輪廻すると考えます。成立する期間を成劫(じょうこう)、持続する期間を住劫(じゅうこう)、壊滅に至る期間を壊劫(えこう)、次の世界が成立するまでの何もない期間を空劫(くうこう)、この「成住壊空」という四劫(しこう)を繰り返すというのです。すなわち、始めもなければ、終わりもないということになります。
 劫(こう)というのは、とてつもなく長い宇宙論的時間の単位で、四劫(成住壊空)という大きな流れの中で、自分という存在の生死は、ほんの僅かな一現象に過ぎません。しかし、久遠(くおん)という仏語を考えてみるとき、類語の永久、永遠、恒久などとは違って、現在からみて遠い未来、あるいは遠い過去のこともいい、今現在の自分は、遠い未来と遠い過去とが、四劫という輪廻の枠組みの中でつながっていると考えられます。してみれば、われわれは、久遠の命を持っているといえましょう。われわれ、一寸先が見えないと思い悩みますが、久遠の命の中を生きていると考えれば、まさに杞憂に過ぎません。ただ、久遠の命の糸が綻(ほころ)ばぬよう、善因善果(良い行いをすれば、それが元となって、必ず良い報いがある)、悪因悪果(悪い行いをすれば、それが元となって、必ず悪い報いがある)、そのことだけを心掛けて百年の命を全うしたいものです。
(潮音寺 鬼頭研祥)


 

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