みかえり法話


にい

可睡斎ゆり園 撮影 : 超空正道

(せき)(にい)

 日本人が考える死後の世界は、あの世というのが主流です。それは仏教でいう六道輪廻、地獄極楽、浄土往生といった考え方とも渾然となっていて、その所在や様相、この世との関連など、漠とした曖昧さのまま、それで良しとしているところがあるようにみえます。そして、この世に怨念を持って死んだ者は、幽霊になったり悪鬼になったりして、この世にいる者に災いをもたらす存在になると考えられています。そこで、幽霊や悪鬼が悪さをしないように鎮魂の供養してあげれば成仏が叶い、一応、それで日本の場合は完結するわけです。
 ところが、最近知って驚いたのですが、中国にはその先があるというのです。清の時代の文人、蒲松齢(ほしょうれい)による神仙、狐鬼に関する物語や見聞を記した怪異小説集『聊斎志異(りょうさいしい)』には、「人は死んだら鬼になるが、鬼が死んだら聻になる。人間が鬼を恐れるように、鬼は聻を恐れる」 とあります。この字を書いて門上に貼っておくと、一切の悪魔鬼神を千里の外に追い払うというのだそうです。
 日本にも、紙に真言密呪や神仏の名・像などを書いて、肌身につけたり、柱や壁に貼リつけたりしておくと、神仏が加護して種々の厄難から逃れることができるという護符・御札なるものがありますが、聻の札には、中国人のイマジネーションの豊かさに感心するとともに、どこかユーモラスなところがあって面白いですね。
 さて、その「聻」ですが、この字は、多くの方は、おそらくこれまで目にされたことはないと思います。先ずもって、読み方が分かりません。漢字辞典で調べてみますと、部首である耳の音、
 ①漢音でジ(ヂ)、呉音では二と読む
 ②漢音でセキ、呉音ではシャクと読む
場合とかあり、それぞれ意味が異なるようです。
 先に紹介したのは、②後者の聻(セキ)の方で、漢音で読みます。一方、①聻(二)は、呉音で読み、仏教、特に禅門で用いられます。
 「一字關(いちじかん)」といって、一字でもって修行者を指導することばがあって、よく知られているものに、「喝(かつ)」があります。すなわち、師僧が、言語でもって仏法を説き明かすことの及ばぬ極意を、弟子に気づかせるためや、誤った考えを叱って反省させるときに発するものです。いわゆる、一喝、大喝、喝破するわけであります。これに近いものに「咦(いい)」「咄(とつ)」があります。
 他にも、「露(ろ)」(・・・が明らかであるぞ、みよ)とか、「参(さん)」(考えよ)とか、「看(かん)」(みよ)といったものが用いられますが、「聻(にい)」(それみよ、そこだ)も、同様な意味を待ったことばとして用いられます。
 これらのことばは、葬儀の引導香語の最後で、「喝」あるいは「聻」といって、娑婆世界を旅立つ故人を教え諭す詩偈を、導師が吐くという形式の中で使われています。ですから、禅宗の葬儀に参列された方でしたら、一度は耳にされているかもしれません。ただ、われわれ、死んでから「喝」「聻」といわれても・・・、という思いも確かにあります。そうかといって、即今それをいってくれるような人はいそうもないし、仮にいたとしても、素直に受け取れる自分ではないというのが正直なところでありましょう。
 そこでです。随処において、自分自身に向かって、喚起を促すために発したらどうかと思うのです。例えば、不手際、失態のために落ち込んでいるときには、
 喝!
  歎難(かんなん)汝を玉にす。
 また、私欲に駆られて、恥辱を味わうようなこととなったら、
 咦!
  身から出た錆(さび)。自業自得。
 あるいは、死にたいくらいに苦しい思いになったときには、
 聻!
  心に思うことかなわずとも、地獄の苦に比ぶべからず。
という具合にです。
 われわれは、三毒、すなわち貪(むさぼリ)・瞋(いかリ)・痴(おろかさ)から、苦しみ、天狗になっていることに気づかずにいるものです。折々、喝(かつ)・咦(いい)・咄(とつ)・露(ろ)・参(さん)・看(かん)・聻(にい) と、それぞれの場で自分で自分を叱り飛ばすことが大切であります。
(潮音寺 鬼頭研祥)


 

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