みかえり法話


法話6月

撮影: 超空正道

ぼう せん (筌を忘る)

 「とくぎょぼうせん」という、四字熟語があります。訓読みすると、「魚を得てせんを忘る」となります。漢字検定では、難易度の高い一級対象ということですので、普段の日常会話の中で使われるような言葉ではありませんが、少々、お付き合いください。
 「筌」は、竹で編んだ漁具のことで、水中に沈めて魚を捕るために使います。魚を捕ってしまうと、使っていた道具のことは忘れてしまい、顧みられなくなることをいいます。
 このことから、目的を達成してしまえば、その功や手段を忘れてしまうことをいい、たとえば、「魚を得て筌を忘れたような処置では、恩義を欠くことになる」のようにして用いられています。
 辞典等には、類語として、次のようなものが掲載されています。
鳥尽弓蔵(鳥尽き弓おさめらる)
 鳥を射尽くしてしまうと、不必要となった弓が、しまわれてしまう。
ほううさぎ死していぬらる)
 兎が死んでしまえば、捕らえるのに用いられた猟犬は不要となって、煮て食べられてしまう。
忘恩負義(恩を忘れて義にそむく)
 恩義を忘れて、義理に背く。
 ただし、これらの語の意味は、忘恩、不義理という点で、類語として挙げられているわけですが、得魚忘筌は、『荘子』の外物がいぶつ篇に由来する言葉で、実は、忘恩、不義理をいさめるような意味には使われておりません。以下に訳文を示します。
 筌(うえ・うけ)は、魚を捕らえるためのものであるが、魚が捕れたら、筌のことは忘れてしまう。てい(わな)は、兎を捕るためのものだが、兎が捕まったら、蹄のことは忘れてしまう。言葉は、人の意図を相手に通じさせるためのものだが、意図するところが伝われば、言葉は忘れてしまうものである。私はどうにかしてこのように、ものだ。
 以上のように、荘子が、ここで言おうとしていることは、じょうぜつで博識ぶるような人間ではなく、言葉を尽くして説明しなくては分からぬような相手でもなく、世の中の道理を全て知り得ているが故に、もう言葉というものの必要性がなく、言葉を忘れ去ったかのような理想の人物と出合い、そして共に語り合いたいということであり、「忘筌」が善くないことと言っているわけではありません。
 京都にある臨済宗の大本山大徳寺のたっちゅうに、ほうあんというお寺があります。ここの茶室には「忘筌」という名が付いています。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名であり、茶人であり、建築、庭園、陶芸の巨匠といわれている、ぼりえんしゅうが最晩年に造ったものだということです。では、小堀遠州が、どういう思いで「忘筌」と名付けたか、考えてみましょう。
 禅画に、「げつてい」という画題があります。文字どおり、布袋様が、月を指さしている図であります。ここで、月は真理を意味し、その真理をわれわれ凡夫に見届けさせるために、布袋様が指で、つまり、経論でもって、真理である月を指し示しているというものです。江戸期の仙厓せんがい和尚の「指月布袋画賛」は、子供と戯れる布袋様のほのぼのとした情景を描いています。
 ところが、人間くさい布袋様の指先の向こうに、月は描かれておらず、まとが定まっておりません。凡夫には、月を見届けることは甚だ難しいといえます。つまり、それは、経論により確かに真理は見届けることができるということを、ただ示唆しているのであって、その方向付けさえ出来れば、布袋様の役目は終わりということになります。それで、禅家では、月のある方向が分かった後には「指を切れ!」、つまり、いつまでも経論に執着すべきではないと教えています。
 さて、茶室とは、言葉を必要としない空間です。どこの経文には何が、あの論説には何が、政治のこと、経済のこと、芸術のこと、趣味のこと、そんなことは何も言わずとも、以心伝心、分かり合える二人、亭主である小堀遠州が、そんな客を迎え、共に茶の湯で語り合える場としたい、そんな思いで、「忘筌」と名付けられたのではないでしょうか。
 われわれ、人生において目標を立て、何だかだ、いろいろな手段、工夫算段企てますが、そんな「筌」や「蹄」、「指」にばかり目が向いているようでは、まだまだ本物ではないということでしょう。
    (潮音寺 鬼頭研祥)

 

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