みかえり法話


縁起

富山県南砺市野口「 向野のエドヒガン」 撮影:超空正道

縁起( えんぎ )

 仏典を読んでいますと、舎利弗(しゃりほつ)あるいは舎利子(しゃりし)という仏弟子の名前が、よく出てまいります。釈尊の十大弟子の一人で、智慧第一といわれ、釈尊にかわって説法されることもあったといわれるほどの最有力の仏弟子でした。釈尊よりも年長で、先に入滅されたと伝えられています。
 この舎利弗は、若いころから学問に優れ、当時もっとも有名な論師の一人で徹底した懐疑論者のサンジャヤの下で修行をしていました。ある日、仏弟子のアッサジに出会い、その爽やかで晴れ晴れとした托鉢(たくはつ)の姿を見て、「あなたは誰について修行をし、何を教わっているか」 と問うと 「師は、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)で、物事には全てに、因(いん)があるとおっしゃっておられます」 と答えると、すぐさま釈尊の本意を悟られ、親友であった神通第一といわれる目連(もくれん)およびサンジャヤの弟子二五〇人と共に仏弟子となったということです。
 さて、アッサジが答えたというのは、種(たね)と考えれば分かり易いと思います。物事の結果、例えば、花を咲かせるためには、種(因)が無くてはならないということです。しかも、種を容器に入れたままではだめで、土に埋めて、適度な水分と養分と温度と日照が満たさ」れたとき、発芽をし、その後も、その植物にとって必要な条件(縁)がすべて整って初めて、つぼみを付けて開花するというわけです。
 これは、人間も同じことで、自分という存在は、父母がいたということが直接原因ですが、今を生きているということは、その間、両親やそれに替わる人たちの加護があったということ、そして、衣食住があるということは当然のこととして、人間が人間らしく生きていくためには、さまざまな条件(縁・間接原因)が要求され、それが満たされているということです。
 この因縁の教えは、仏教の根幹をなすものです。詳しくは〈因縁生起(いんねんしょうき)〉といい、略して縁起(えんぎ)といいます。〈縁起をみる者は法(真理)をみ、法をみる者は縁起をみる〉といわれます。それは、基本的には〈此(これ)有るが故に彼(かれ)有り。此無なきが故に彼無し〉 、あるいは〈此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す〉ということです。すなわち、あらゆる事象は、事象間の相互関係の上に成り立つものであり、不変的・固定的実体というべきものは何一つないという〈無我〉 、あるいは〈空〉の理念を理論的に裏づけるもの、それがこの縁起観であります
 この考え方は、分析的でありかつ論理的であり、科学的な側面を持っています。ですから、宗教が超自然的なものであるということで、時に胡散(うさん)臭いものとして敬遠されることがありますが、仏教のこの縁起に関しては、そのようなところは微塵もありません。ですから、賢明であった舎利弗は、アッサジが話したその教えの一端を聞いただけで、道理に適った教えであることをすぐさま悟ったのだと思います。

 話は換わりますが、日本を代表する実業家である稲盛和夫という方がおられます。氏は「経営に権謀術数は一切不要」といっておられます。企業経営には、策略や企みが不可欠だと感じている人は多いが、正々堂々と人間として正しいやり方を貫き、一日一日を懸命に生きさえすれば、未来は開け、運命は開けてくるということを信じ、実践してきたとおっしゃっておられます。また「動機善なりや、私心なかりしか」と、行動を起こすにあたっては、その動機に利己的な心はないかを、自分自身に問いかけるとおっしゃっておられます。
  稲盛氏の信条は、 実に明快です。善因善果、悪因悪果、善いことを思い、善い行いをすれば、必ずよい結果がついてくる、逆に、悪いことを思い、悪いことをすれば、悪い結果が待っているという、縁起に基づくものであります。人間には、確かに、運命というものはあるが、運命に流され生きたのでは駄目で、世のためになること、人のためになることを心掛けていれば、不運を幸運に転換させる力となり、それはこれまで自らが信じ実践をしてきたことで、そして今の自分があるとおっしゃっておられます。人間が、世界が、宇宙が法に則り進化していく中で、私欲のために、それに逆らう悪い行為をしたならば、当然よい結果は生まれないとも。
 誰もが、稲盛氏のようにはなれませんが、その生き方に学ぶべきことは多いように思います。
(潮音寺 鬼頭研祥)

 

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