みかえり法話


法話8月

 疋田勝彦様提供「月下美人」 撮影:超空正道

ずい 

 一昨年、ある財団法人の立ち上げに、縁あって関わらせていただきました。この法人の目的と事業は、経済的に困窮し、学業に専念できない小学校児童の学業を援助するために、奨学金を支給するというものです。基金の提供者は九十才を超える高齢の方で、ご自身が亡くなられた後も、遺した財産をそのような事業に運用してほしいという、強いご意志によるものです。
 もちろん、資金が湯水のようにあるわけではありませんから、その範囲や期間も限定的なものにはなります。しかし、限られた子ども、限られた金額であったとしても、たとえ一人でも喜ぶものがあったとすれば、それはとても尊いことであるに違いありません。自分が蓄えたお金を、他に分け与えるということは、誰もができることではありません。
 どのような人間の心にも、善い心と悪い心がありますが、仏教では仏さまのような他を利する善い心を無量心むりょうしんといい、四つを挙げます。(マイトリー maitrī)・(カルナ karunā)・(ムディター muditā)・しゃ(ウペークシャー upekşā) の四つです。カッコ部はサンスクリット(梵語)です。
 というのは、友愛の心という意味を持つことばです。たとえば、本当に親しい人が、「腹が減っている」といえば、何かおごってやろうと思いますし、お金に不自由しているようだと思えば、なにがしかの金品を渡してやろうと思うものです。また、元気がなく落ち込んでいるようなときには、励ましの言葉をかけてあげようと思うものです。このように、物なり、お金なり、言葉なりによって、他を楽にしてあげようという利他の心をいいます。ですから、そのような意味を踏まえて、与楽よらくということばに置き換えることもあります。
 というのは、他者の苦しみに対する同情という意味を持つことばで、他者に寄り添い、その苦しみから救ってあげようとする心をいいます。人間には、物なり、お金なり、励ましの言葉をもらったとしても、癒やされない苦しみもあります。たとえば、最愛の人を亡くしたとか、重い病になったとか、いじめられたとか、大事な試験に落ちたとか、深い絶望感に襲われるときです。そんな時は、ただ、自分と同じように悲しみ、同じように苦しんでくれる人が寄り添ってくれることによってのみ救われるものです。このような、同悲・同苦の心のことを、前述の慈の与楽に対して抜苦ばっくといいます。
 父親のことを慈父じふ、母親のことを悲母ひもというのは、そのような意味がこめられているのです。そして、この二つを併せると慈悲ということばになります。仏・菩薩が隔てなく衆生をあわれみ、いつくしむ心をいうのですが、冒頭でお話した、困窮している子どもたちを救ってあげたいという気持ちは、正にこの慈悲の心です。我々衆生は、どうしても自分中心に生きており、自利のことばかりで、利他のことまでは考える余裕がなく、慈も悲も、まして二つを併せ持つことはとても難しいことです。
 そこで、仏教では、の心を説きます。自分にはまだ力不足で出来ない他人の善行、慈善事業、ボランティアなどに対して、応援し共に喜ぶことは、自分で行うと同じくらいに尊いことであると説いています。しかし、了見の狭い我々衆生は、とかく他人の善い行いに対して、羨んだり妬んだり、さらにはケチを付けたりしがちです。仏教者は、善行に限らず、他人が立派な家を建てた、昇進をした、業績を上げたといった幸福を掴んだときには、同じように喜んであげることが大切で、これを随喜ずいきの心といいます。
 そして、しゃというのは、すべてのこだわりを捨てるということです。好きだから、嫌いだからというこだわりや、温情をかけてやったのにというこだわりを捨てて、他者の幸せを喜び、他者を差別しない平らかな心を喜捨きしゃといいます。人間、あげたとなるとこだわりが残りますが、捨てたものには執着しません。ですから、財を施す布施にしても、喜捨と考えればスッキリと落ち着くのです。
 以上、四つのはかりしれない慈悲喜捨という利他の心は、仏教者として、いつも胸のポケットに入れて持っていたいものです。ただ、注意が必要なのは、使い方を違えると、「小さな親切、大きなお世話」となってしまい、自分では善いことをしているつもりが、かえって迷惑をかけていることがあるものです。特に、悲の心で接すべきところ、慈を押しつけていることがままありますので、気を付けたいところです。
   (潮音寺 鬼頭研祥)


 

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