みかえり法話


法話9月

半田 矢勝川の彼岸花 撮影:超空正道

えん

 昔、江戸時代には江戸、大坂、京都などに遊郭があって、遊び人の旦那衆にとって、金さえあれば、そこは極楽世界と思えるところでしたが、一歩遊郭の門の外に出れば、強欲と紛糾とが渦巻く娑婆しゃば現実世界へと逆戻りです。一方、遊郭に囲われの身である遊女たちの側からすれば、そこは正に地獄であって、過酷な日々から逃れて遊郭の外、つまり、遊び人が娑婆と呼んでいる、俗世間へ解き放たれることを、一心に望んでいたに違いないのです。
 そこで、よく任侠映画などで描かれる、拘束を強いられる刑務所からの出所シーンで、「娑婆の空気はうめえな」というセリフが生まれたということです。
 本来、娑婆とは仏教語で、サンスクリット語の「sahā」を音写したものです。我々が住んでいる世界のことをいいます。「忍耐」を意味し、西方極楽世界や東方浄瑠璃じょうるり 世界という「浄土」と違って、娑婆世界は、汚辱おじょくと苦しみに満ちた「穢土えど」であるとの認識から、「忍土にんど」などとも漢訳されます。
 確かに、我々が住んでいるこの世界は、地震はあるは、台風は来るは、戦争はなくならないは、病魔から逃れることは出来ないはで、「忍土」であることに間違いありません。特に近年、自然災害も頻繁に起きておりますし、連日のように世界の各地で耳を疑うような事件が勃発しております。中でも、七年前に起きた、津久井やまゆり園で元職員が、十九人もの入所者を刺殺した事件は、あまりに衝撃的でした。なぜこのような事件が起きたかを検証することは、再発を防ぐために大切なことで、いろいろな方面の方々が、これからも時間を掛けて調査研究されるかとは思いますが、私には、思い当たるような事例を以前聞いたことがあります。
 ある家出非行少年が、保護をされたといいます。凶悪な罪を犯したというわけではありませんでしたが、偽名を使って自分を明かさず、当初はかたくなな態度であったといいます。しかし、調査員の地道な説得によって次第に自分について語り始め、次のようなことを打ち明けたといいます。
 父親は高校の教師であったが、自分は出来が悪く、学校で悪い成績を取ってくると、「お前のような奴は、俺の子ではない!」といって、全人格を否定されたというのです。やまゆり園の加害者の青年も、親と同じ教員になる夢を持っていたようですが、叶わなかったそうです。人生の過程で、挫折はつきものです。大切なことは、周りがその時どう支えるかです。
 『阿弥陀経』に、極楽の蓮池には、「青い華は青い光、黄色の華は黄色い光、赤い華は赤い光、白い華は純白の光を放って、それぞれ清らかな香気をただよわせている」とあります。つまり、極楽世界では、それぞれが、それぞれにあるがまま光り輝いているというのです。ところが娑婆世界では、それぞれを色分けして差別をし、ランク付けをします。優等生と劣等生、健常者と障がい者、金持ちと貧乏人といったように差別をし、弱者の方は切り捨てられるという、悲しい現実があることを否定することはできません。ただ、そのことを不当と憤れば、この世が、穢土としか見ることが出来なくなってしまいます。
 前述の事件にしても、多くの犯罪も、世界各地で頻発しているテロにしても、貧困・差別・コンプレックスといったものが、その根っこにはあります。しかし、「泥中でいちゅう 白蓮華びゃくれんげ」というように、たとえ今るところが、泥のような堪え忍ばなくてはならないところであったとしても、その泥の中にこそ、自分色の蓮華を美しく輝き咲かせる養分があるのです。
 「厭離穢土えんりえど欣求浄土ごんぐじょうど」という言葉があります。苦悩多いけがれたこの娑婆世界をいとい離れたいと願い、安楽な世界である極楽浄土に生れたいと切望することをいいますが、なにも、それは死んでからのことではありません。『維摩経ゆいまきょう』の仏国品に「浄土を得んと欲せば、まさにその心をきよむべし。その心の浄きにしたがって、すなわち浄土浄し」と説かれています。つまり、地獄極楽、穢土浄土といいますが、けして二つの世界が対立してあるというわけではありません。自分の心が穢れていると、この現実世界が「穢土」として現れ、心が浄らかになれば、同じ世界が「浄土」として示顕され、それは、見る者の心の鏡に映し出された有り様にほかならないのです。
 宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といっています。浄土への道程は遥かですが、「その心を浄むべし」こそがその鍵であることは確かです。
    (潮音寺 鬼頭研祥)

 

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