愛知県高浜市 稗田川の彼岸花 撮影:超空正道
大 乗
日本における、女性の社会進出の問題が取り沙汰されてここ久しいですが、教育・健康の面では、世界トップクラスなのにくらべ、政治・経済の面で低く、特に政治は世界最低レベルで、改善傾向にあるとはとても言えない状況が続いています。ただ、歴史的にみると、弥生時代に相当する日本において、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に「倭国(邪馬台国)の女王」として、卑弥呼(西暦170年頃~248年)の名が記されています。また、女性天皇が、これまで十代にわたって在位しています。ただ、改名しての再即位を含んでいますので、実際には八人の女性が天皇として即位しています。
◉代表的女性天皇
・推古天皇(第33代593~628 年)日本初の女性天皇。聖徳太子を摂政に任命し、仏教の普及を推進。
・持統天皇(第41代690~697年)律令制度の整備を進め、平城京遷都の基礎を築いた。
・称徳天皇(孝謙天皇第46代749~758年が重祚して第48代764年~770 年)道鏡との関係で政治的緊張が高まり、出家のまま再即位した女帝。
・後桜町天皇(第117代1762~1771年)江戸時代後期の最後の女性天皇。
そこで今回、日本初の女帝である推古天皇の時代を探ってみたいと思います。在位期間は35年と91日という長きにわたり、聖徳太子を摂政に、仏教を日本の精神文化の礎とされ、それが今日まで受け継がれているということで、忘れてはならない存在と言えましょう。
推古天皇の甥に当たる聖徳太子については、未だ不明な点がないわけではありませんが、法隆寺・四天王寺・中宮寺その他、太子創建と伝える寺は数多くあり、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書として、『三経義疏』を著されたとされています。いにしえより、推古天皇の下での聖徳太子は、偉大な政治家、宗教家(日本における釈尊)として崇められてきました。
聖徳太子が膨大な仏教経典の中から三経を選ばれたのには、それぞれ次なる理由が考えられます。
三経は共に大乗経典で、『法華経』では、旧来の小乗(声聞・縁覚)の仏教においては、出家者中心の救済が主ですが、大乗(菩薩)では「すべての人が仏になれる」と説かれています。
『維摩経』では、出家者だけでなく、在家の人々も仏道を歩むことができるという革新的な視点に立ち、主人公である維摩居士の生き方は「生活即仏道」を体現していて、それは、聖徳太子自身が理想とされたと考えられます。
次に『勝鬘経』が選ばれたのには、推古天皇が女帝であったということが影響しているものと思われます。この経典の主人公は、舎衛国(コーサラ国)の波斯匿王(プラセーナジット)の娘で、在家の女性信者である勝鬘夫人が仏法を説き、それを釈尊が認めるという、誠に希有なる経典です。この経典の特色は、次のようにまとめることができます。
① 如来蔵思想
・すべての人に仏性が内在しているという教え。
・煩悩に覆われていても、本質は清浄であり、悟りの可能性を誰もが持っている。
・聖徳太子はこの思想を重視し、「仏性は万人に宿る」と説くことで、仏教の普遍性を強調しました。
② 摂受正法
・真実の教え(正法)を受け入れ、守り、広めることが仏道の核心。
・勝鬘夫人が立てた「三大願(正法を理解する・理解した教えを広める・教えを守るためには命も惜しまない)」の中でも、この摂受正法は最も重要な誓願。
・聖徳太子はこの教えを通じて、仏教の実践と伝承の重要性を説いています。
③ 在家者の仏道実践
・勝鬘夫人は在家の女性でありながら、仏法を説く存在として描かれている。
・『義疏』では、出家者だけでなく在家者も仏道を歩むことができるという、革新的な視点が示されている。
以上のように、聖徳太子は、仏教が貴族や僧侶だけのものではなく、広く民衆に開かれた教えであることを示唆し、後の日本仏教(特に法華思想や浄土思想)にも大きな影響を与えました。
ときに、世界中で紛争が絶えません。中には、民族や国を、根絶やしにしてしまおうとしているのではないかとさえ思わせる、とんでもない指導者もいます。今こそ慈悲の心、憐れみの心が必要です。仏教では観音菩薩、キリスト教では聖母マリアのような方々の御心です。観音様にあえて性別はありませんが、限りなく女性的であります。日本にも世界にも、そのような母性とも通ずる、慈悲心の具現を理想とする大乗の教えが展開できる、維摩居士や勝鬘夫人のような指導者の誕生を、切望せずにはおれません。
(潮音寺 鬼頭研祥)