みかえり法話


老人六歌仙画賛

老人六歌仙画賛(出光美術館蔵)

必得往生( ひっとくおうじょう )

 江戸後期の臨済宗の禅僧、仙厓和尚(せんがい 1750~1837)が書き残された、『老人六歌仙画賛』というのがあります。ユーモラスな老人の戯画とその画賛には、
① 皺(しわ)がよる 黒子(ほくろ)ができる 腰曲がる 頭はげる ひげ白くなる
② 手は震う 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目は疎(うと)くなる
③ 身に添うは頭巾 襟巻 杖 目鏡 たんぽ(湯たんぽ)温石(おんじゃく)尿瓶(しゅびん)孫の手
④ 聞きたがる 死にともながる 淋しがる 心は曲まがる 欲深くなる
⑤ くどくなる 気短かになる 愚痴になる 出しゃばりたがる 世話焼きたがる
⑥ またしても 同じ話に 子を誉める 達者自慢に人は嫌がる 
とあり、実に味わい深いものがあります。それぞれ、①から③については身体的なものですから、致し方ないとして、④から⑥については、心の持ちようで、ずいぶん変わるものでしょうが、「人は嫌がる」というのに、本人はそれに気づいていないというところに問題があるようにも思われます。

 それにしてもこれらについては、もうすでに老人の域に達している方、また、老人予備軍の方々も、肝に銘じておきたいものばかりです。とくに、④につきましては、周りの者に迷惑をかけるばかりか、自分自身が面白くないわけですから、ここのところを何とか克服できれば、精神的な面で、安定した老後を過ごすことが出来、そして、終(つい)に来きたる最期(さいご)の時を、心穏やかに迎えることが出来るような気がいたします。
ただ、人間にとって、死への恐怖はどうしても拭去ることは出来ません。しかも、老いれば老いるほどにそれが近づいて来るという思いが、老人の心を曲げさせ不安定にしてしまいます。ならばどうすればよいかというと、簡単なことです。永遠の命を獲得すればいいのです。「そんな馬鹿な」と思われるかもしれませんが、こんなエピソードが伝わっています。
 宗祖法然上人は、八十才で亡くなっておられます。晩年、見舞いに来る弟子達に対して、「浄土を願う行人は、病患をえて偏(ひとえ)にこれを楽しむ」とおっしゃったといいます。つまり、「こうして病気になって伏せているが、いよいよこれでお浄土へ往(い)かさせていただけるかと思うと、目的地を間近にした旅人のように、今はワクワクしているのだ」とおっしゃったいうのです。

 極楽浄土に往生を願うということは、死というひとつの通過点を経て、浄土に生まれ往くことであり、それは、無量寿仏(阿弥陀仏)のもとで、無量の寿命を頂くということを意味するのです。『大無量寿経』には、阿弥陀仏が成仏されるにあたって立てられた、四十八の誓願の記述があります。その第十五願に、浄土の住人の寿命は限りがなく、かつ、望みに応じて長短自在であること、そして、よく知られているところの念仏往生の願は、第十八願で、浄土往生を願い念仏する者は、もれなく救いとるということが説かれています。 これを本願と呼びます。あまりに阿弥陀仏の本願が有名で、本願というと、この十八願のことを指すことが多いのですが、本来は、仏陀や菩薩が、修行中に立てた衆生救済の誓願のことをいいます。ですから、・因・諸行無常といった真理(法 ダルマ)を具現化したものと考えてよいかと思います。

 空・縁起・無常の法は、自分の体ひとつをとってみましても、厳然と作用しています。父母という因により人間としての生命を頂いた私自身も、縁を失えば死に往く身であります。また、人間の寿命の最長は百二十年、それ以上は生きられないように、あらかじめプログラムされているのだといいます。
 このような生命の不思議、自然 ・宇宙の神秘には、科学が進めば進むほどに驚かされます。そこには、空・縁起・無常という法のもと、森羅万象を動かしている何らかの意思が働いているとしか思わざるをえません。その見えざる偉大な慈悲の力を具現化したものこそ、弥陀の本願に相違なかろうと思うのです。ゆえに善導大師曰(いわ)く、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生。称名念仏するものは、必ず浄土に救いとろうと誓われた本願は、決して虚(いつわ)りではない――と。 (潮音寺 鬼頭研祥)

 

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