みかえり法話


法話3月

豊田市足助 珍しい白いカタクリの花 撮影:超空正道

れいだん

 最近驚いたというか、懸念に思うことがあります。それはスマートフォンのアプリです。私もあえて導入していなかったアプリに、他人の持っているスマートフォンの位置情報が分かるというものがあります。早い話、家族や仲間でそのアプリを入れて情報を共有すれば、誰が今どこに居るかが、刻々に分かり、そして、一ヶ月分の行動範囲や時刻等が記録されて、地図上に図式化されて閲覧できるというものです。
 これは、例えば親御さんが子どもの安全のためとか、お互いが共通理解のもとに上手に使えば、実に便利なものです。しかし、いかんせん、プライバシーが丸裸にされるわけですから、今回、この種のアプリを導入してみて、少々背筋が寒く感じられた次第です。
 このような情報は、セキュリティ機能があって保護されているとはいえ、完全ではありません。その気になれば、第三者にも筒抜けになるということです。私どものような一般人の個々の情報なぞ、そうたいしたことはないかもしれませんが、多く集めれば、何かしらの意味を持ってきます。また、企業や国のトップの情報が狙われる可能性も否定できません。今後、このような方面の技術革新は、どんどん進んでいくでしょうから、個人ユーザーである持つ側も、よほどの注意が必要であるということを痛感いたしました。 またスマホとは別のことになりますが、私が子どもであった前世紀半ばの頃、自動車を所有して自分が運転するとは、思ってもいませんでした。それが、あと十年もすれば自動車は自動運転が当たり前となり、さらに近い将来、ドローン技術が進んで、自家用の空飛ぶ自動車の時代が間違いなく来るでしょう。科学技術の発展と相まって、このような物質文明の変遷は、瞬きしている間にも進化しているような感さえし、脅威を覚えます。
 一方、精神文明は、そのような急速な物質文明の変化に対応し切れていないといえます。その結果、自殺・精神疾患・引きこもり等といった、いろいろな歪みとして出てきています。今後、ロボットや人工知能がどんどん人間の仕事を奪っていくことが予想されますから、識者から心配の声が上がっております。しかし、これはよくよく考えれば分かることなのですが、人間が機械や道具に合わせようとするから歪みが出てくるのであって、人間の方が確たる主体性を持っておれば何も問題は起きないということです。
 孔子の『論語』には、次なる名言があります。
いわく、われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして心の欲する所に従いてのりえず。
【現代語訳】
 先生がいわれた、「わたしは十五で学問を志し、三十にして独立した。四十で迷いが消え、五十で天命を知った。六十になると人の話に耳をかせるようになり、七十になってやっと、人の道を外れることなく自由に行動できるようになった」
 また、釈尊は『法句経』(二七五番)において、仏道を説く意味を語っておられます。
「汝等、この道をかば、くるしみの辺際はてに至らん。われすでに、くるしみのきたれば、今こそ、なんじらのために、道を説くなり」と。
 これら二つのお言葉は、孔子にしても、釈尊にしても、物事の道理を悟られた、晩年に語られたものでしょう。ちょうど、山を登り極めた者が、これから登ってくる者たちに、余裕を持った心で、語られている言葉です。このような心境、悟りといってもよいかと思いますが、それは、いかにスマホや人工知能が進化したからといって、身につくものではありません。
 人間というものは、いかに知識や情報を多く持っているからといって、それを使いこなす知恵がなくては、判断を誤ることになります。「冷暖自知」ということをいいます。亡母の思い出として、小さな子どもに、アイロンとかストーブは火傷をする危険があることを教えるのに、実際に少し触らせていましたが、そういうことなのでしょう。知恵は、自身の体験の一つ一つの積み重ねで、便利や安易とは対極にあるものです。
 特に、仏の知恵として大切なのは慈悲心です。多くの失敗や苦難を経験した人でないと、他人の苦しみなぞ理解しえないものです。人工知能も、ただ人間を凌駕することばかりを目指すのではなく、鉄腕アトムのような優しさを持ったものであるよう、技術者の方々には願いたいものです。
     (潮音寺 鬼頭研祥)


 

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