法話6月

撮影:超空正道

欣求ごんぐ浄土じょうど

 自分という人間が、この世に生を受けて、何の苦しみを味わうことがなく、一生を終えることができたら、どれ程よいかと考える人は少くなくないでしょう。しかし、なかなかそう上手くはいきません。人間である限り、生老病死しょうろうびょうし四苦、つまり、記憶にはない生まれ出るときの苦、そして、ある時期を境に刻々老いてゆく苦、また、さまざまな体や心の不調による病む苦、そして終には、死ぬ苦という避けては通ることの出来ない苦しみがあります。
 ただ、最近の医療においては、たとえば末期ガンのような場合でも、緩和かんわケアを受けることによって、ずいぶん病気そのものの苦痛は軽減されるようになってきているようです。しかし、死という現実が目の前に突きつけられた場合、最新医療をもってしても取り去ることのできない痛みというものが、新たに出てくる場合があります。それは、スピリチュアルペイン(魂の痛み)と呼ばれ、そのような痛みを抱かかえる本人はもちろんのこと、その家族、あるいは終末医療や介護の現場においても、悩ましい問題として立ちはだかってきます。
 日本における終末医療の先駆者として知られる、柏木哲夫氏がスピリチュアルペインを次のように分類されておられます。
◎ 生きる意義に対する問い
・「私は何のために生まれてきたのだろうか」
・「私にはどんな価値があるのか」
・「どうしてこんな病気になってしまったのだろうか。まだやりたいことがあったのに…」
◎ 苦しみに対する問い
・「私だけがなぜこんなにつらい思いをしなければならないのか」
◎ 希望がないという訴え
・「どうせ自分はもう長いことないのに、頑張っても仕方がない」
・「身の回りのことも片づいたし、もう何もすることがない」
◎ 孤独感の訴え
・「世間から自分だけ取り残されてしまい、寂しくてならない」
・「こんな私を誰も助けてはくれない」
◎ 罪悪感の表出
・「私が悪いことをしたから、こんな病気になったのか」
・「これはきっと天罰だ。許して欲しい」
◎ 別離への寂しさ
・「家族ともう二度と会えなくなるのか」
◎ 家族に迷惑をかけているという思い
・「こんなに迷惑をかけなければならないのなら、いっそ早く死んでしまいたい」
◎ 死後の問題
・「死んだら私はどうなるか。無になるのか」
 どれもが切実なものばかりですが、先にも述べたごとく、これらの痛みを抑える特効薬があるわけではなく、本人自身が納得できる回答を見いだせない限り、死ぬ時まで痛みは続くということであり、なかなか辛いものがあります。
 俳人、歌人でもある正岡子規は、壮絶な闘病生活を送り、三十五才という若さで亡くなっています。学生時代に肺結核にかかり、二十八才のときに脊椎カリエスと診断されて以降は寝た切りになり、病巣からは膿が流れ出すという、そんな地獄のような苦しみの中にあって、日本の近代文学界に大きな足跡を残した方です。 晩年の随筆『病床六尺』には、次のような記述があります。
 「余は今迄いままで禅宗の所謂いわゆる悟りという事を誤解してた。悟りという事は如何いかなる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」
 仏教において四苦というのは、「思うがままにならない」ということで、ならば、あきらめるしかないというのがその教えです。ずいぶん冷たい教えのようですが、どうにもならないことを、どうにかしようとすれば、余計に苦しむことになります。諦めるは明らめるということ、本当のことを明らかにすることで、匙を投げて断念することではありません。
 つまり、たとい、どんな状況下にあっても、今あるここが自分の天地と心得、現状を他人の所為せいにすることなく、愚痴はいわず、あるがままを受け入れ、平気で生きる、それが悟りだというのです。また同時に、平気で生きることは、平気で死ぬることであり、「生」と「死」は、決して別物ではなく、不二ふにの関係にあると説くのが仏教です。しかし、これでも解決しないのが死後の問題です。そこで、大切なのが欣求浄土。すなわち、浄土往生を願う気持ちです。人生の旅路の終着駅である目的地が定まると、到着までの車窓が楽しくなります。ガタゴト揺られながら、様々に現れる風景を、じっくり眺めていこうではありませんか。
(潮音寺 鬼頭研祥)

 


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