法話7月

 奈良県岡田の谷 半夏生園 撮影:超空正道

獅子吼ししく

 仏教美術において、獅子は、智慧を司る文殊菩薩の乗り物として登場します。獅子はライオンと同義ですが、その姿は、写実的なライオンとは様子が違います。デザイン的にその変遷をみると、中国の唐代(七~十世紀)の頃から、空想的な要素が取り入れられて、からと呼ばれるものが一般化したということです。日本においてもその影響を受け、仏具や襖絵などの図柄に用いられるのはこの唐獅子で、中でもたんと組み合わされた唐獅子牡丹が定番化されました。
 余談になりますが、獅子は、百獣の王といわれます。だが、その無敵の獅子でも、ただ一つ恐れるものがあり、それは獅子身中の虫であるといいます。体毛の中に発生するその害虫は、増殖し、やがて皮を破り肉に食らいつくのです。しかし、この害虫は、牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたると死ぬといいます。そこで獅子は、夜は牡丹の花の下で休みます。獅子にとって、牡丹の下は安住の処であるというわけです。
 余談のついでにもう一つ。襖絵などの図柄に、竹に虎があります。虎も獅子に負けず劣らず猛獣ですが、巨大な象にはさすがに敵いません。そこで、象が侵入できにくい竹藪に逃げ込めば安全というわけです。つまり、虎にとって、竹林は安全な居場所ということになります。

 寺院の襖絵に唐獅子牡丹や竹に虎の文様がよく描かれます。これは、それを見る人々に、獅子にとっては牡丹がよりどころであり、虎にとっては竹林が拠であるということを知らしめて、「あなたにとっての拠は何か?」と問いかけているというのです。そして、それはお金でも地位や権力でもなく、暗に、「仏法こそをその拠とすべきである」と示しているというのです。
 では次に、仏典に表現される獅子ということで、『無量寿経』をひもいてみましょう。無量寿仏、つまり阿弥陀仏が、まだ法蔵比丘として修行の身であったときに、師である世自在王仏せじざいおうぶつに対し、衆生救済を誓う四十八の願をたて終わり、改めてこれらの願が悩めるあらゆる衆生を救わんがためのものであるということを重ねて述べ、その意気込み、気概を熱く語るというくだりがあります。その一節に「もろもろの為に法蔵を開き、広く功徳の宝を施し、常に大衆の中にいて、説法師子吼せん」とあります。

 獅子吼は、岩波『仏教辞典』には、次のように説明されております。
仏陀の説法、漢訳仏典では、多く《師子吼》と書かれている。仏陀が大衆にむかって堂々と教えを説き、邪説を排して異教の徒を怖れさせるのを、獅子が咆哮ほうこうして他の獣を怖れさせるさまに例えた語。転じて、雄弁をふるうことをいう。「師子吼といふは、みずから大理をぶるに怖畏ふいする所無し。い、師子の衆狩しゅしゅおそりざるに同なり。故に師子吼と云ふ」〔勝鬘経義疏〕

 ときに、「吼」は「ほえる」と読みます。人間の場合は、話すとかしゃべるといいます。虫や鳥や獣の場合は、鳴く・さえずる・える・える・うなる・いななくのように表現します。以前、飼っていたシーズー犬は小型犬でしたが、無駄吠えということをほとんどしませんでした。何か主張や要求したいときには、低い声で一言「ワン」というだけでしたが、なかなか説得力あるものでした。獅子吼というのは、大きな声を出すということではありません。自分勝手な主張を大きな声を張り上げて、威圧的にがなり立てるのは獅子吼とはいいません。聖徳太子が、『しょうまんきょうしょ』の中で「大理をぶる」「い」という言葉を用いておられますが、正しいこと、倫理や道徳、道理にかなっていることを、威厳を持って話すということです。
 仏教では、釈尊最後の教えとして「自灯明じとうみょう」「法灯明ほうとうみょう」ということをいいます(2020年6月の法話)。仏法を拠とし、世界の道理を理解し、自らが拠となり得れば、その人の話す言葉一つ一つは、輝きのある威厳のある言葉となって放たれます。その姿こそを「獅子吼」というのです。
   (潮音寺 鬼頭研祥)

 


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