法話9月

 撮影:超空正道

ずい 

 いきなりの質問で恐縮ですが、ご身のことをどのようにおっしゃってるでしょうか?
 私の場合は、幼少期、父親のまねをしていたのでしょう、ワシといっていました。物心がつくようになってからは、ワシというような友だちは一人もいませんでしたので、ボク、あるいはときによってオレ、というようになりました。それから、社会人になってから、何時の頃であったか記憶がありませんが、ワタシというようになり、現在に至っております。しかし、実のところ白状しますと、家内に対してはボク、わが子に対してはオトウサン、孫にはオジイチャンと使い分けております。皆さまはいかがでしょうか。
 日本語には、自称する言葉(一人称)として、ワタシ、ワタクシ、ボク、オレ、ワシ、アタシ、ワレ、ジブン、古風なものでは、セッシャ、ソレガシ、オイラ、アチキ、アタイ等々、ずいぶんとあるものです。詳しいことは知りませんが、英語では「I」だけですし、独語、仏語でも同様だということです。日本人の場合、私を含め、状況に応じて、自称の言葉を使い分けているようです
 当方には二才違いの二人の孫がいます。下の子が三才の頃は、自分のことを、まだ、自分の顔に指さすことでしか表現できませんでしたが、上の子は、自分の名前であるミチアキと言っていました。幼児の場合、親に依存している存在であり、その世間の範囲は狭く、親が○○チャンと呼んでいれば、自分のことは、○○チャンなわけです。ところが、成長するに従って、自我の意識が芽生えてくると、自分、そして自分の身近にいる人間だけではなく、多くの他人が存在しているものであるということが分かってきます。そこにおいて、ボクなのか、ワタシなのか、オレなのか、あるいは○○チャンのままなのか、結構重要なことのように思います。
 人間というものは、不完全な存在ですが、それでも世間に対して、一人前の大人として認めてもらうということは、本人はもちろんのこと、周りの人間もそれを望んでいます。では、どんな人間が一人前といえるかというと、普通一般的には「自立していること」と考えられているのではないでしょうか。ならば、自立するためには、その反対である依存することをやめれば良いと考えても不自然なことではありません。
 そこで、親・兄弟姉妹・親類・友人たちのつながりを断つことが自立することだと考えてやり始めると、これが意に反して、だんだん孤立するばかりで、自立とはほど遠いものとなってしまいます。つまり、人間は、一人だけでは生きられず、その意味で、依存なしには生きられない存在なわけです。ゆえに、自立している人間とは、そういう世の中の仕組みが解って、自分を支えてくれている人やものに、感謝し共存できる人間であるということになります。
このことは、信仰と深い関わりを持っています。法然上人は、善導大師の『散善義』にある「一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住座臥ぎょうじゅうざがに時節の久近くこんを問わず、念々に捨てざるもの、これを正定しょうじょうごうと名づく。かの仏の願に順ずるが故に」の文を引用して、浄土宗を開かれました。しかし、弟子たちの多くが、その中の一節「念々不捨者」を、ただ念仏だけをしていれば弥陀に救われると、解釈していたのです。ところが、これでは、他との関わりを断って、孤立化を深めることになり、一人前の念仏者とはいえなくなってしまいます。
 一方、法然上人に十四才のとき弟子となり、以後二十三年間、師の下で学ばれた西山上人は、実信房蓮生との問答『述誠じゅつじょう』において、「一念十念も機の功にらず、ただ仏体のほかに別の功を論ずる事なき所を、『念々不捨者是名正定業』という。即ちこれを他力の至極しごくとするなり」と、すなわち「念々不捨者」はわれわれではなく、阿弥陀仏の方であり、そのように念じてくださっている他力に気付くことこそ肝要であると述べておられます。
 しかし、経文にあるからといって、阿弥陀仏の存在そのものが信じられないのがわれわれ現代人であります。そこで、釈尊が説かれるところの諸行無常・諸法無我・涅槃寂静、縁起、空といった法によって、世界は成り立っていることは紛れもない事実であり、その法こそが仏体であり、なかでも、善意と慈悲に特化された存在こそが阿弥陀仏であると理解すれば、その輪郭が見えてくるのではないでしょうか。
 「仏道をならうというは、自己をならうなり」は 道元禅師の言葉です。何気なく、「私」「俺」といっている自分でありますが、大きな他力に支えられているのだという自覚で裏打ちされた「私」であり「俺」でありたいものです。そうして、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
(潮音寺 鬼頭研祥)

 


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